女性国際戦犯法廷から10年・国際シンポジウム 『法廷』は何を裁き、何が変わったか~性暴力・民族差別・植民地主義~」(バウネット・ジャパンなどで構成する同実行委員会主催 新婦人など40団体賛同)が、12月5日、東京外国語大学で開かれ、500人が参加しました。
女性国際戦犯法廷とは?
国内や世界各国やら約1200が集まり、2000年12月に東京で開かれた。日本軍「慰安婦」制度を裁かなかった東京裁判 (1946年)の継続として、加害国日本が提案し、被害国の人びと、国際的な法律家の協力を得て、当時の国際法に基づき開かれ、翌年12月にオランダで天皇裕仁と他政府高官9人の10人全員に有罪の最終判決を下した。日本政府には、法的責任をとり謝罪し補償すること、二度と繰り返さないことを示すための資料館等を設立すること、教科書への記述など12項目が勧告された。95社の海外マスメディアが取材し世界に報道されたが、日本のメディアはほとんどとりあげず、政府は判決を無視しつづけている。
シンポジウムには、日本軍「慰安婦」問題を裁いた2000年「法廷」の首席検事をはじめ、韓国、中国、米国、フィリピン、インドネシア、台湾などから、「法廷」にかかわった人や被害女性、支援者など500人が参加しました。シンポジウムでは、被害女性たちが声をあげ、加害者責任と被害者の尊厳回復を求めた「法廷」の意義を改めて確認するとともに、この10年の歩みと展望を講演やパネル討論、映像などで共有しました。
世界に広がる決議
「法廷」は、日本政府に謝罪と補償などを求める画期的な判決を下しましたが、日本政府は反応を示しませんでした。
韓国挺身隊問題対策協議会常任代表の尹美香(ユンミヒャン)さんは、「国際舞台では被害者の訴えが勝利したが、依然として変わらない日本政府。被害者たちの死亡率が年々高くなるなか、“何ができるか”を考え、各国議会や市町村議会の決議採択にとりくんできた。被害女性が声をあげ、人権活動家となって各国を証言に回るなか、世界を動かしてきた」と発言しました。
女性差別撤廃委員会など国連機関が繰り返し勧告しているにもかかわらず、何もしないばかりか、政治家が暴言を吐きつづける日本政府へ世界の批判が高まり、“謝罪と責任を求める”アメリカ下院での決議(07年)を皮切りに、オランダ、カナダ、EU、韓国、台湾へと広がりました。
戦時下の女性を励ます
「法廷」は、紛争で苦しむ世界各地の女性たちに力強い励ましともなり、グアテマラやビルマで、戦時下の性暴力を裁く女性法廷が開かれました。日本軍「慰安婦」問題はアジアを越えたグローバルな今日の問題へ発展しています。
バックラッシュの中でも力強く前進
一方、日本では「法廷」後の10年、バックラッシュ(逆流)がつよまりました。教科書から慰安婦の記述が少しずつ消え、マスコミは「慰安婦」問題をタブー視し、報道を自粛。女性国際戦犯法廷をめぐっては、NHKの番組が政治介入で改ざんする事件もおきて一つひとつたたかいがひろがっています。
若い世代も
若い世代が動きだしたことはこの間の特徴です。京都から親子3人で参加した村上麻衣さんは、「慰安婦」問題に出合った青年たちが、連帯しながら「全国同時 証言集会」にとりくんできた活動を紹介(04年は10地域、05年は9地域)。「消せない記憶を次の世代へつなげたい」と発言、拍手に包まれました。
地方議会に広がる決議
地方議会から政府に解決を求める意見書の採択は、新婦人も含め各地のグループが粘り強く活動し36市町村に広がり、「法廷」の勧告の一つである資料館も市民の手で実現、2005年、新宿区に「女性たちの戦争と平和資料館」(WAM)が開館しました。
証言や歴史の事実、運動を記録する博物館は、韓国(ソウルに 戦争と女性の人権博物館も建設中)、フィリピン、台湾と世界に広がり広がり、ミュージアムどうしの交流もすすんでいます。
国会でも
国会では当時三党(民主、共産、社民)の議員が、「慰安婦」法案を繰り返し提出。署名も粘り強くとりくまれ、提出されています。野党時代、ともに議員立法を提出してきた民主党が政権についた今、この問題の解決にどう向き合うのかが問われています。
“普通の人たち”に広げていこう
「法廷」の首席検事だった、パトリシア・ビザー・セラーズさん(元国連人権高等弁務官事務所)が基調講演。「日本軍『慰安婦』の被害者は、貧困、社会階層、家族内での地位、民族など、最も弱い層の人たち。このことは、いまの被害者の弱い立場と同じです」と報告。現在の性暴力を根絶するためにも、日本軍「慰安婦」問題の解決が不可欠であることを指摘しました。
尹貞玉(ユン ジョンオク)さんは、「『法廷』は世界の女性史のみならず、世界史に刻まれる一大事件。これからは、“普通の人たち”に広めていきましょう」と呼びかけました。“国境を越えた女性連帯・市民連帯をさらに”との宣言を採択し、さらなる前進を誓いあいました。
今もつづく被害者の苦しみ 証言から
中国の韋紹蘭(ウェイシャオラン)さんと羅善学(ルオ シャンシュエ)さん親子
「日本政府は母にあやまってください」
中国・桂林から参加した、韋紹蘭さんは、1944年11月、隠れていた洞窟から娘をおぶって出たところで日本兵に取り囲まれ、慰安所に強制連行され、監禁されました。3カ月後、深夜に子どもを抱え逃げ出すことができましたが、そのとき、羅さんを身ごもっていました。
「優しかった夫も、息子が生まれるとだんだん冷たくなり、汚い言葉をなげつけるようになりました。私は黙るしかありませんでした。天に向かって石を投げたかったけれど、天には届きませんでした」と韋さん。途切れながら証言する母の涙をぬぐいっていた息子の羅さんは、途中、いすから崩れ落ち、泣き伏してしまいました。
抱えられるように席に戻った羅さん(65)は、「村の子どもたちからは『日本鬼の子』と遊んでもらえず、父親から殴られ、今も片目と足が不自由です。小学校は途中で退学させられ、結婚もできませんでした。自分が差別されるのはいいけれど、母まで侮辱されるのはいやです。日本政府は母にあやまってください」と呼びかけました。
フィリピン・ルソン島のナルシサ・クラベリアさん(81)
「1人になってもたたかいます」
フィリピン・ルソン島からきたナルシサ・クラベリアさんは、14歳のとき、ルソン島のサンファン町にやってきた日本兵によって、目の前で父、母、弟、妹を殺され、三姉妹が駐とん地になっていた市の建物に連行、監禁されました。
「村長だった父は柱に縛り付けられ、上半身の皮をはぎとる拷問を受けました。彼らは“やめてほしい”と懇願する母をレイプしました。弟と妹が日本兵を打とうとしましたが、殺されました。私たち三姉妹はトラックに乗せられ、村から少しずつ引き離されましたが、“妻よ、子どもたちよ。おまえたちはどこにいるんだ。苦しい、助けてくれ!”と叫ぶ父の最期の声を聞きました。振り向くと、家は焼かれ煙があがっていました。駐とん地では、レイプ、強制労働、空腹、この世にあるすべての苦痛を経験しました。私は人生の一番華やかなはずの少女時代を、楽しむ経験ができませんでした。父と母、きょうだいと、女性の尊厳を奪われました。日本のみなさま、世界の支援者のみなさま、正義を求めるたたかいに参加してください。日本政府を動かしましょう。私はたとえ一人になってたたかいつづけます」と呼びかけ、拍手に包まれました。