日本軍「慰安婦」の事実を否定する動きがくり返されるなか、「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館」(wam東京・新宿区)では、第10回特別展「軍隊は女性を守らない~沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力」(2013年6月30日まで)を開催中です。資料館を訪ねました。
学び 交流できる場
「この夏、戦争体験のない自分が、子どもたちに戦争をどう伝えるかを考えてきた」という、新婦人千葉県本部平和部の美濃部千代子さん(44)と資料館に入ると、偶然にも新婦人埼玉・草加支部からも2人の人が訪れていました。来館していた高校生2人らとともに、池田恵理子館長に案内していただくことになりました。
入口ホールには、日本軍による性暴力で被害を受けた、台湾、韓国、フィリピンなど9カ国155人の女性たちの肖像写真が並んでいます。
ここは、戦時性暴力に焦点をあてた日本で初めての資料館で、日本軍「慰安婦」問題を記録・継承し、行動の発信地としてつくられたもの。常設展では、「慰安婦」年表、アジア全域の「慰安所マップ」、2000年の女性国際戦犯法廷のパネルなど、そもそもから最新の情報までを知ることができます。
すぐ隣にあった慰安所
開催中の沖縄展は、女性史研究や女性の人権に携わる沖縄の女性たちとwamの運営委員が共同作業で、1年がかりで準備してきました。
展示室には、沖縄全島の「慰安所マップ」が貼られ、慰安所の場所、住民や元日本兵の証言、公文書などが、島ごと、市町村ごとに小パネルにまとめられています。
「家の半分が慰安所にされ、残りの部分に私たちの家族が住んでいた」(金武町 宮城英子さんの証言 当時13歳) 「一番可愛そうだったのは朝鮮人ですよ。…若くてきれいな子ばかりでした」(嘉手納町・北谷町 浜元トヨさんの証言)など、暮らしのすぐ近くにあった慰安所の生々しさに衝撃を受けます。
145ヵ所もの慰安所
アジア太平洋戦争末期、日本の「本土防衛」の「捨て石」にされ、3ヵ月にわたる地上戦で多数の住民が命を落とした沖縄。1944年3月、日本陸軍・第32軍が沖縄に配備され、その後の1年余りで、145ヵ所にも及ぶ慰安所が設置されたことが女性たちの粘り強い調査で明らかになっています。
第32軍司令部の長勇参謀長官は1937年の南京攻略(大虐殺)に参加し、中支那方面軍の指示によって、慰安所を設置する担当者でした。中国から沖縄に転戦した部隊にとって、慰安所の設置は当然のことだったのです。那覇市の辻遊郭の女性たちをはじめ、朝鮮半島や本土から連行された女性たちが「慰安婦」にされました。
置き去りにされた朝鮮人「慰安婦」
沖縄展では、故郷に一度も帰ることなく沖縄で亡くなった、裵奉奇(ぺ・ポンギ)さんの生涯をまとめたパネルや衣類、食器などの遺品も展示されています。ぺさんは、「お金が儲かる」とだまされて、朝鮮半島から日本へと連れてこられ、1944年11月に那覇へ、その後、渡嘉敷島で慰安所に閉じ込められました。
橋下徹大阪市長の「強制の事実については確たる証拠はない」などの発言は根も葉もないこと。言葉も地理もわからないまま、焼け跡でどんな戦後を生きてきたのか…。ペさんの生涯は、私たちに何をなすべきかを問いかけます。
新たな証言も次つぎ
池田館長は、「wamの展示とほぼ同じパネルが、沖縄各地を巡回しています。展示を準備していた2月に、首里城地下にあった日本軍第32軍司令壕の説明版から、『慰安婦』に関する記述が、県によって削除されるという事件がおこりました。沖縄展は県民の熱い注目を集め、那覇市歴史博物館には通常の4倍の来館者が訪れ、“祖母の証言がのっていない”“私の家も慰安所にされた”など、新証言も次つぎ。みんなひそひそと話してはいたけれど、公的な場で、沖縄の『慰安婦』問題がこれほど全面的に公開、展示されたのは初めて。集団自決もそうですが、『慰安婦』にされた、強かんされたということは簡単には語れない。ずーっと抑えてきて、戦後67年たって、やっと今伝えられるようになってきた。こういう問題があるということを皆で共有して、次の段階に入っていかなくてはと思います」と話します。
活動の拠点に
新婦人の美濃部さんは、「戦後67年経ってもまだ発掘されていない戦争体験があること、それらを掘り起こしながら、記録し、伝え、解決するために行動する女性たちがたくさんいることに励まされました。私も、平和部の一員として、何ができるかを考えたい。大切なのは学び、行動すること」と話します。
池田館長は、「被害国の資料を掘り起こして、集めています。中国や朝鮮半島、東ティモール、フィリピンなど国ごとの特別展をひらいてきました。来年は台湾ですが、まだインドネシアやビルマなど南洋諸島などはこれからです。沖縄以外にも、国内に慰安所がたくさんありましたので、それを調査しながら展示できるよう準備もすすめています。本来政府がすべき真相究明、記録、継承の活動をしながら、一番大切なのは、被害者が生きているうちに一日も早く、日本政府による謝罪と賠償をして解決すること。そのための活動の拠点、交流の場として活用してほしい」と話します。
戦後の米兵による性暴力事件も展示され、その数は300を超えます。本土復帰後、なお40年経っても性暴力事件は後をたたず、8月18日にも那覇でおこりました。オスプレイ配備への怒りとともに「海兵隊はでていけ」「基地はいらない」の声が、9月9日の県民大会に結集されます。
一緒に見学した高校生は、「戦後の性暴力被害者のパネルを読んでいるうちに苦しくなって、その場にいられなくなりました。私よりずっと幼い被害者もいる。戦争は過去のものでないことがわかった」と話します。
軍隊と暴力の問題を女性たちの手で明らかにし問いかける貴重な展示を、多くの人たちに見てほしい。日本政府が事実に向き合い「慰安婦」問題の法的解決を急ぐよう、行動をひろげましょう。